中央アジア研究ネットワーク
研究会報告


文責:帯谷知可(国立民族学博物館・地域研究交流センター)
   渡邊日日(東京大学)

日時:2001年10月13日(土)14:00〜17:00
場所:東京大学 本郷キャンパス 山上会館

報告者:
(1) V. A. Shnirelman,
"Many faces of the past: The Azeris in search of their ancestry"
(2) G. A. Komarova,
"Islam and radioactive contamination: ambivalent outcomes of religious behavior".

 
 今回の研究会は,ロシア科学アカデミー民族学・人類学研究所に勤務されている当地第一級の研究者であり,報告時現在,国立民族学博物館に滞在している上記お二人を迎えて行われた。シュニレールマン氏は,ロシアの伝統経済・文化理論・ナショナリズム・歴史とアイデンティティ・ポリティクスと,幅広い領域をカバーしており,今回の発表はそうした博識を生かしてものであった。また,コマローヴァ氏は民族生態学とエスノ・ポリティクスを専門とし,知見を生かして応用人類学にも参与しており,放射能汚染をめぐる深刻な問題を提起するものであった。中央アジアを専門とする歴史学者や人類学者が参加し,数こそ少なかったとはいえ,それだけ十分な質疑応答が繰り返されたのは有益であった。以下は,両報告の要旨である。

■ヴィクトル・シュニレリマン「たくさんの過去の顔〜アゼリー人の民族的起源〜」■

 民族の遠い祖先を飽くことなく追求することはソヴィエトの人々の生活の興味深い一面であった。これは公のイデオロギーによって奨励さえされていた。問題はある民族のアイデンティティというのはソ連において最も重要なものだったといことである。民族的な差異は、民族的な単位に基づいたソヴィエト連邦のシステムに埋め込まれた。ある民族集団は完全なソヴィエト社会主義共和国を、あるものは自治共和国を、またあるものは自治区を与えられた。そして非常に多くの民族集団はまったく自治を与えられず、自分たちは他の民族よりも劣っているかのように感じた。それゆえ、民族性(ethnicity)はたいへん重要な政治的手段として機能し、民族の正統性におけるどんな変化も人々にとって実にデリケートな問題であった。象徴的にはこの正統性とは根拠のある(authentic)文化、独自の言語と歴史と密接に結びついていた。

 本報告はアゼリー人歴史家たちによってソヴィエト時代に展開された自分たちの過去に対する見方に焦点をあてている。ソヴィエト時代のアゼリー人歴史家による彼らの遠い過去に対するアプローチは3つに分類できる。

1. メディア説。アゼリー人の祖先をメディアに結びつける説。これはアゼリー人に望ましい過去を提供し、中東の初期文明という歴史的遺産を取り込む布石となった。同時にそれは南部アゼリー人をイランから引き離し、彼らに別個のコミュニティを形成させ、政治的自治を求める彼らの主張を正当化した。さらに、それは失地回復(irredentism)と南部アゼルバイジャンのソヴィエト・アゼルバイジャンとの統合への展望を開いた。が、この説の論者たちのあらゆる工夫にも関わらず、この説はアゼリー人にイラン語を話す祖先を与えてしまい、それは上記の理由のゆえに受け入れがたいものだった。

2. アルバニア説。この説はソヴィエトのアゼリー人に土着の民族集団という正統性を供給し、また彼らを非常に古い文化の継承者にした。それはまたナゴルノ・カラバフの地に対する主張に歴史的議論を追加することにもなった。

 これらの議論は双方ともアゼリー人をテュルク世界から意図的に切り離すものである。実際、当初ソヴィエト当局はテュルク系の人々に対してたいへん懐疑的であり、彼らに対して何度も懲罰的措置を取った。ソヴィエト歴史学のアプローチはテュルク系の人々に対して、みずからの文化を築き上げることのできない、略奪のみに終始する遅れた遊牧民という否定的なステレオタイプを作り上げた。こうした見方はアルメニア人とグルジア人の間で特に共通したものだった。それゆえ、アゼリー人の学者たちは非テュルク系の祖先を自分たちに与えることに最善を尽くしたのである。彼らは初期の非常に発達した文化をもつ定住農耕民の中に自らの祖先を見いだした。1915年にアルメニア人の大量虐殺を行ったトルコ人から自らを遠ざけようする意図もまたこの戦略において重要な役割を果たした。

 やがて、テュルク系の人々に対するイメージは、ソ連におけるテュルク系人口の増加や教育水準の向上、テュルク系民族の共和国の経済力向上やエリート官僚の地元民化に伴って、否定的なニュアンスを失っていった。テュルク諸語の威信もまた上昇した。テュルク諸語を研究するテュルク学者たちの反論は今や驚きと不満をもって迎えられることとなった。そこで顕著な役割を果たしたのは、純粋な民族的伝統の絶対的価値が強調されたペレストロイカ以前の数十年間においてソヴィエト学界で主流だった、原初性を重視する態度(the primordialist attitude)である。特に1950年代以降導入された強いロシア化の圧力のもと、言語の転換は一般大衆によって恥ずべきものと扱われるようになった。この母語に対する熱烈な態度は、1960-70年代にソヴィエト当局によって強く唱道された「接近と融合」のプロセスに対する非ロシア系民族の積極的抵抗の最も重要な表明手段となった。こうした状況のもと、アゼルバイジャンでは修正主義学派が活性化し、アゼリー民族形成の第3の説が登場した。

3. テュルク説。アゼリー人修正主義者たちはその土着性の正統性を主張するためにその地域における初期文化の遺産を強調し続け、それゆえ、誰がその地に最初に住み着いたのかという伝統的な原則に基づいて、すべての領域を治める権利を強調し続けることになった。同時に、彼らは徐々に初期のこの地域の住民をテュルク化するようになった。彼らは今だコーカサス・アルバニアにルーツをもつアゼリー人の長い文化的継続性に固執してはいるが、今やアルバニア人はテュルク系言語をもった人々に転換された。(スキタイやサカなどのような)カスピ海沿岸の低地地域にたびたび侵入した初期の遊牧民もまたテュルク系言語をもっていたことになり、アゼリー人の祖先のリストに加えられた。

 ここで問題になっているこれらの概念とそれらの間における対立関係は、アゼリー知識人たちが常に彼らのアイデンティティの堅固な基盤となるものもを追求してきたということを示している。ある者は領域に基づいた統合を夢みて、政治的文化的継続性を主に強調した(メディア説、アルバニア説)。またある者は、民族性を言語的起源と結びつけ、パン・テュルク的なものの構築に非常に引きつけられた。

 アゼルバイジャンの領域の一体性はアイデンティティに勝るとも劣らず重要だった。しかし、それはアルメニア人に代表されるような少数民族からの特定の要求によって脅かされた。アゼリー版民族起源論がかくも変化に富んでいるのはまさにこの理由による。そのひとつひとつがそれぞれのターゲットに向けられたものだった。メディア説は北アゼルバイジャンと南アゼルバイジャンの一体性を正当化しなければならなかった。アルバニア説はソヴィエト・アゼルバイジャンの領土的一体性に資する議論を提供し、アルメニア人のクラ側右岸に対する要求に反駁するのに役だった。パン・テュルク的構想については、言語に基づいたアゼリー人の統合をねらいとしており、それゆえ他の二つの説よりも民族統合のソヴィエト型モデルの要請をはるかによく満たしていたのだが、この地域にテュルク系の人々が遅く到来したという事実は彼らのアキレス腱であった。そのため、この説を主張した者たちは、手にすることのできるあらゆる歴史的証拠に矛盾しようとも、テュルク系の人々の存在を可能な限り古く過去に遡らせることに最善を尽くしたのである。

 アゼリー知識人たちは今もアゼリー人の土着性の正統性を証明し、言語的、宗教的、文化的要因に関わらず、彼ら自身をアゼルバイジャンの領域に結びつけることにたいへん熱心である。同時に、アイデンティティ形成における言語の役割を過小評価しながら、アゼリー知識人たちは、彼ら自身に対してのみならず、アルメニア人に代表される彼らの隣人たちに対しても、領域に基づいた正統性(local [territorial] loyalty)という概念を使った。アルメニア人たちが言語の共通性に基づいて疑いのない関係性を発見すれば、アゼリー人は、我々が知るように、彼らの生誕地と居住地を何よりも重視するので、そこにトリックや操作を疑い、また言語的な正統性(language loyalty)を付随的な不安定なものであるとして軽視した。

 これらすべてはアイデンティティ問題に対する相反するアプローチの中に反映されており、それはナゴルノ・カラバフの住民の形成をめぐる激烈な議論の過程においても両陣営によって主張されたのである。

■ガリーナ・コマローヴァ「イスラームと放射能汚染〜宗教的行動の両義的結果〜」■

 1950年代よりロシア・南ウラル地方は深刻な放射能汚染に悩まされてきた。1940年代後半にプルトニウムを精製するマヤク(Mayak)化学工場が建設されたのであるが,1957年に事故で2千万キュリーの放射能汚染が生じ(キシュティム[Kyshtym]事故),1967年にはマヤクの放射能廃棄物がハリケーンのため空中に舞うこととなった。さらに,マヤクは汚染廃棄物をテチャ(Techa)川に流していた。この結果,40万以上の住民が,核で汚染された地域に住むことになり,現在でも,その3分の2が汚染地域に住み続けている。

 ムスリモヴォ(Muslymovo)はこうした汚染地域に位置する村である。ムスリモヴォ村はバシキール人の一指導者アブドゥルマンナン・ムスリモフ(Abdulmannan Muslimov)によって1730〜35年に作られたが,後にロシア人やタタール人が到来した。これらの民族は互いに生活習慣を借用したり,ロシア革命後はコルホーズ(集団農場)に加入したりしたが,私的経済活動(家庭菜園の経営)の面で民族的差異が見られた。つい最近までバシキール人やタタール人はじゃがいもしか植えていなかったのに対し,ロシア人は多くの野菜を育てている。村人は牛や羊を飼っているが,ロシア人は豚も飼う。タタール人とバシキール人は乳製品と肉を多く取り,野菜をあまり食べない。(ムスリモヴォ村の80%がタタール人,11%がバシキール人となっている。)

 ムスリモヴォ村の放射能汚染を調査すると,汚染による疾病への態度に民族的・ジェンダー的差異が観察できる。ムスリムの大多数は,研究機関による死者の生体組織検査を認めようとはせず,遺体を埋葬する。彼ら彼女らは,病院で検査を受けたがらず,疾病をアラーによる罰と捉え,誰にも言わずに耐える傾向にある。こうした宿命論は男性に強く見られる。これに対し女性は,「真実を知っていたらこの場所から移りたい」「子供を産まなかっただろう」と答え,積極的に社会運動や環境運動に参加している。ただこのジェンダー上の差異にも民族的差異が影響している。ムスリム女性は声高に公共の関心を集めることはしない。

 また,疾病をめぐっても民族的・ジェンダー的差異が見られる。ムスリム女性の場合,洗体の宗教的義務を果たすため,性病にかかる率が低いが,逆に水が汚染されている場合は,婦人病を含む様々な病気にかかりやすくなってしまう。男性は,民間療法を女性ほど覚えておらず,ウォッカが放射能を体外に排出する働きをもっていると信じている。また,牛・羊の肉を好む,もともと遊牧民であったこの地域のムスリムは,こうした家畜が汚染された草を食べる以上,より多くの汚染物質を体内に取り込むことになる。

 民族間接触で食や調理法の相互作用が進んでいるが,このことは汚染地域の住民にとって大きな意味をもっている。手に入る肉のなかで,豚がもっとも汚染度が低いと知られるようになり(豚はテチャ川流域の草を食べないため),タタール人・バシキール人でも豚を食べるようになった。年輩のムスリムは豚食禁止を守り続けているが,親族や近隣の人間が豚を食べても非難することはない。これには,おそらく,「民衆的[Rus. populiarnii, narodnyi]ムスリム」としてのタタール人・バシキール人の在り方が影響しているのだろう。彼ら彼女らは,「ムスリム」とは違うモデルであり,質問されたら80%は自分をムスリムと答えるが,シャリフの規則を守らないなどの点で,世俗化したムスリムなのである。

 既に述べた様に,放射能汚染という深刻な状況に対して積極的に行動しようとしているのは女性である。村の寄り合いでも彼女たちの意見が決定的なものとなっている。これは,自分の命だけでなく親族や子供の命も守らなくてはいけないという女性意識のためである。

* * *

なお,両氏の報告に関しては,次の著作や論文でも参照することができる。
Victor A. Shnirelman, [2001] The Value of the Pasts: Myths, Identity and Politics in Transcaucasia, Osaka: National Museum of Ethnology, Senri Ethnological Studies, No. 57, (forthcoming).
Galina Komarova, [2000] "Ethnic Behaviour under Conditions of High Radiation," Inner Asia, 2: 63-72.

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