International Colloquium of the Islamic Area Studies Project Intellectuals in Islam in the 20th Century: Situations, Discourses, Strategies Hotel JAL City Yotsuya, Tokyo October 13-15 2000. ![]() More Pictures |
Session I Muslim Intellectuals in an Era of Transformation Session II Modern/Contemporary Thought and Social Movements Session III Communicating Knowledge and Ideas: Networks and Media |
Session I Muslim Intellectuals in an Era of Transformation 本セッションは、19世紀から20世紀前半におけるいわゆる「近代」と「伝統」との狭間で、新たな、独自の道を模索した知識人たちに焦点を当てる。(報告:末近浩太) |
まず、Nuria G. Garaeva氏は、19世紀のタタール人イスラーム改革者 Shihab al-din Harun al-Mardjani (1818-1889)(以下マルジャーニー)を紹介する。イスラーム改革者としての彼の登場は、タタールの知識人を彼以前と以降に二分する。マルジャーニーの思想は、20世紀のタタール社会のあり方、例えば教育や国民統合などに大きな影響を与えた。彼の目的は、イスラームとタタール人の歴史に依拠した正しいイスラーム知識を広めることであった。 発表では、その一例として、スペインからインドにかけての6000人にも上るイスラーム知識人の伝記を含む、”Wafiyyat al-Aslaf wa Tahiyyat al-Ahlaf”(アラビア語)が紹介された。 続いて、Garaeva氏は、20世紀初頭のタタール人ウラマーによって議論されたトピックを3つ挙げた。ここにマルジャーニーの影響力の強さを見る。 (1)日が短いタタールにおける日没後の礼拝の必要性 (2)クルアーンのタタール語翻訳の可否 (3)タタール人のスーフィズム まず、(1)であるが、マルジャーニーが、ハッジの際マッカのムフティーを訪ねた結果、義務との見解を受けた。(2)は、彼が19世紀中に既にウスマーン版のペルシア語への翻訳を監督していたため可とされた。(3)は、カザンの公式イマームはスーフィズムに対して慎重な立場をとっていたが、マルジャーニーの著作の1つがスーフィズム学習にて推奨された結果、公認されることとなった。 次に、Stefan Reichmuth氏は、シリア出身のウラマー‘Abd al-Karim Murad(1926年没。以下ムラード)の活動を例に挙げ、20世紀初頭のアラブ・イスラーム世界における立憲思想・運動を考察する。問題の所在は、西洋的概念である立憲制とイスラームの両立性をめぐる是非である。それは、理論と実践の両者にわたる。 ムラードは、ラシード・リダーとほぼ同時代の人物で、フセイン・アル=ジスルに師事するなど教育的背景にも共通点が多い。彼は、西アフリカに渡った後、モロッコで1906年憲法の起稿にたずさわる。西洋列強から独立と主権を獲得するために―それはmaslahとされる―、Majlis al-milla/Majlis al-ummaを設立する必要性を説く。 そして、それは「イスラーム的」であり外国人との共存の手段であるとする。(当時、西洋的教育受けた知識人とウラマーとのあいだには、反専制・反植民地政府という共通項があったため、立憲制をめぐっての理論的対立はほとんど無かった。)こうした見解は、西洋近代文明とイスラームの調和、シューラーとマスラハの重視、そしてあくまで「自己改革」を中心とするという点で、リダーら「マナール派」との共鳴が見られる。 マフザンは、シャリーアを正しく施行することでレジティマシーを強化し、周辺の部族もその支配下に治めることが可能となり、結果的に国家のマスラハを生む。この「シャリーア・パトリオティズム」(shar‘ia patriotism)とも呼べるものは、1930年代以降のアッラール・ファスィーに代表される「イスラーム・ナショナリズム」(Islamic Nationalism)へと継承されていった、とReichmuth氏は論を結ぶ。 発表後の質疑応答でも指摘されたこの不明瞭な分類、shar‘ia patriotism/Islamic Nationalismには、大きな問題が含まれる。それはいずれもナショナリズムを所与のものとする西洋中心的見方、もしくは我々の置かれた今日的状況の文脈でそれを分析しているということである。 換言すれば、モロッコのウラマーたちの試みをナショナリズムの「亜種」に過ぎないとし、彼らの主体性や独創性を矮小化する危険性をはらんでいる。氏は質問に対して前者を説明するのに、”general feeling towards Muslim Internationalism” (Inter-national-ism)との表現を使っており、後者とともにnationalismが前提となっている。nationalismという語は、イデオロギーとしての自己完結性と脱宗教性(脱イスラーム性)をはらむため、このような用法には適さないと思われる。 いずれにしても、小杉泰氏によるキーノート・スピーチでも触れられたように、イスラームとナショナリズムの関係は「極度に複雑であり」、地域により位相が微妙にことなってくる。この問題を考える際の1つの事例として、より精緻な議論を期待したい。 <質疑応答> 質疑応答では、上述のshar’ia patriotismと Islamic Nationalismの分類の問題の他に、マルジャーニーに代表される「改革主義」(reformism)と「ジャディーディズム」の関連性が問われた。 Garaeva氏は、前者は18世紀中頃のタタールの状況に大きく影響されており、教育の改革に重点が置かれたとする。これに対し、後者はより政治的な改革思想・活動であったとされる。前者の具体例としては2点が紹介された。まず、イスラームの歴史の再構築である。例えば、クルアーンの内容をタタール人の歴史に照らしあわせて解釈することなどである。次に、世俗的知識の教育である。数学、地理学、化学、ロシア語などがマドラサの科目とすることが奨励された。 興味深いエピソードが1つ。1986年のペレストロイカ開始以後、タタール人のあいだでアラビア語学習が拡大したが、それまで彼らはアラビア文字を使っていた彼らの言語(タタール語)とアラビア語そのものとの区別を知らなかった。驚きである。 Yann Richard氏は、”Intellectual Discourse in Reza Shah’s Period”と題し、特定の思想家ではなく、ディスコースに焦点を当てる発表を行った。まず、氏は知識人を”those who give central values to the society”と定義づける。その上で、「誰がその役目を果たすか」との問いをたて、ウラマーと近代西洋教育を受けた人々との拮抗が生じ、その定義が流動化した戦間期に焦点を当てる。 近代以降の知識人にあっては、権力との関係がこれまで以上に重要となったと氏は指摘する。Reichmuth氏が既に触れたような専制と植民地政府に反発するウラマーと西洋的教育(特にフランスでの教育)を受けた知識人との協調関係は、パフラヴィー朝が成立した後悪化する。シャーが明確な「統一イラン国家」建設、すなわちイラン・ナショナリズムを打ち出したため、後者が優遇されたからである。それは、国際社会において、第1次大戦勃発によってヨーロッパに対する幻滅感が生まれ、ヨーロッパ・モデルの国民国家形成に矛盾が見え始めた1920年代でさえも顕著に見られた しかし、反西洋・反植民地主義(=イラン・ナショナリズム)と西洋化された知識人の登用は、シャーにとっての大きな矛盾であった。そのため、「西洋的知識人」が継続的に社会の優位に立っていたものの、この矛盾は、「誰が知識人か」という問題を常に流動的なものとした。この流動性は、シャーを用心深い「独裁者」に変貌させ、一貫性に欠ける弾圧の下で知識人が知識人としてのアイデンティティを確信することの出来ない状況を作り出した。 この時期、イスラームは狭義の「宗教」として私的領域に限定されたが、硬直化した伝統的ウラマーと西洋知識人の拮抗関係を横目に、サラフィーヤに影響された改革派のウラマーSangalaji(1890-1944)らが、近代におけるイスラームを模索するべくイランにおいて活躍したことは、非常に興味深い。まさにこの勢力が半世紀を経てウラマーの再興の起爆剤となりイラン革命へと導いたのであろうか? Richard氏の議論は、「徐々にウラマーは知識人でなくなっていった」というものであるが、これはいわば「上からの視点」ではないであろうか。ある特定の社会において誰が知識人と見なされるか、ではなく、誰が知識人としての資格を与えられたかという政治的問題に限定されてしまっている印象を受ける。このことは、発表後の議論においても指摘されたように(後述)、氏の知識人の定義―社会の中心的価値を与えるもの―が認識論的な問題を含んでいるからだと思われる。 次に、Marc Gabourieau氏による、Abu’l-a’la Mawdudi(1903-1979)の思想と活動についての発表が行われた。発表の前半では、マウドゥーディーの人物像が紹介された。彼は1932年にイスラーム改革者・思想家としての道を歩みだした後、数々の著作を世に送り出し、その多くが、後の急進的イスラーム主義者のイデオロギーに影響を与えた。インドと後のパキスタン(となる地域)との分離を確信していなかったこと、そして、マフディーとムジュタヒドいずれの道を歩むか決心していなかったことから、それらを実践に移すことをためらっていた。しかし、1940年のパキスタン建国運動開始以来、政治活動に従事するようになる。その中心が、彼の設立したJama’at-i Islamiである。 次に、発表の後半では、マウドゥーディーの思想・活動における(時系列順の)5つの特徴が検証された。 (1) ムスリム・アイデンティティの防衛 (2) 直解主義者(literalist)的な聖典解釈 (3) 全体主義者(totalitarian)的なイスラーム思想再解釈 (4) 政治的権力の優先 (5) 弱いリーダーシップ 結論は、以下の2つのコントラストに凝縮される。 (A) マウドゥーディーの急進的(とされる)思想と、実践に移されてからの数々の妥協や譲歩。 (B) 急進的イスラーム主義者によるその急進的思想の「継承」と、マウドゥーディー自身の年齢に平行した穏健化。 これらを説明できる要因として、Gaborieau氏は、マウドゥーディーを「イスラーム国家は一夜にして成る」と信じるutopianもしくはmessianistと見なし、彼の思想は「確かに」急進的であったとする。しかし、パキスタンの建国が彼をより現実的な路線に引き戻した、という仮説を提示し論を結んだ。 氏の発表は、マウドゥーディーの思想の特徴を5つ分類したところに画期性を認めることができる。しかし全体とし見ると、概説的なものに終始してしまった印象を受けた。後の急進的イスラーム主義者たちが彼の著作を「誤読したわけではなかった」といういわば消極的な結論(仮説)よりも、むしろマウドゥーディーの思想・活動の変遷の内実を検証した上で、それがどのような影響力を持ったか、あるいはどのように解釈され得たかに触れる必要があったのではないか。 <質疑応答> まず、革命前のイランの知識人に焦点を当てたRichard氏の発表の「希少性」が評価された。このような研究が少ない理由として、シャー時代は、厳しい言論統制のが厳しく、資料があまり残されていないということが挙げられた。 問題点として指摘されたのは、氏の知識人の定義(those who give central values to the society)と、ウラマー/近代的知識人(modern intellectuals)の二分法である。シャー時代、ウラマーの役割は、国家から切り離された宗教的領域に限定され、その意味では知識人と見なされない。そして近代的知識人は、国家と密接な関係を結び中心的価値を創出する、と氏は述べる。しかし、これは次の議論を呼ぶ。「中心的価値とはそもそも何であるか?」そこで、中心的価値とはある程度固定的なものであるため、”those who make impact on the society”と定義すべきで、それはディスコース、制度、社会関係の3つの側面から分析しなくてはならない、との提案がされる。知識人の定義を巡る議論にここで火がつき、Session II、IIIまでもつれ込むことになる・・・。 Gabourieau氏に対しては、改革者マウドゥーディーをutopianとする見解に山根氏がコメントを加えた。Gabourieau氏はutopianを、単純にウンマの即時統一を目指す者、とする。(そもそもウンマはユートピア[=実現不可能な社会]なのか?)この時期(“era of transformation”)のいわゆる「伝統」と「近代」の拮抗における新たな思想潮流は、常にイスラームに依拠していたわけではなく、実際はナショナリズム等のさまざまな試みがなされた。その意味では、「新たな(=改革派)イスラーム」を唱えたマウドゥーディーはむしろ「近代的保守派」(modern conservative)と捉えられるべきで、その立場・見解は当時珍しいものであった。彼はムスリムの規定を信仰のみに依拠したり、主権は神のみにあるという主張をしており、その意味では「保守」の部類に入るのではないか? 私見では、ここで両者が挙げているウンマ統一、信仰、主権在神のような要素は、いわばイスラームにおける原理原則であると同時に、サラフィー主義者たちも重視するものである。よって、これらを主張するからといってただちに「保守」とはならないのではないか? すなわち・・・もし「保守」と「革新」の二分法を適用する対象となる集合を、イスラーム思想家とした場合、「伝統的ウラマー」が保守となってしまう。仮に、集合を思想家全体と設定した場合には、改革派と伝統派の両者を含むイスラーム思想家のほとんどが保守となり、革新はいわゆる世俗主義者になり、イスラーム=前近代という図式が導かれる危険性がある。よって、マウドゥーディーは「近代的保守派」ではなく、近代における原点回帰型の「イスラーム改革派」と位置づけられる。 |
Session II Modern/Contemporary Thought and Social Movements (報告:山浦公美代) 第2セッションでは、近代・現代思想と社会運動についての発表が行なわれた。 まずStephan A. Dudoignon氏が、ロシアのムスリム共同体において女性の果たした主唱者的役割について論じた。19世紀後半から20世紀初頭のロシア・ムスリムの間では、公共の場での議論において女性知識人が大きな役割を果たし、イスラーム系の新聞や雑誌も女性問題を大きく取り上げていた。この傾向は、クリミアのバフチェサライ、西シベリアのトムスク、カザフ世界の北部で発行されたトルコ語系の新聞や雑誌において顕著であった。 ロシアにおけるムスリムの改革運動は、ロシアによる植民地化の影響を大きく受けている。ムスリム共同体の改革を志向する風潮は、偉大な女性活動家を生んだ。ジャディード運動の活動家や近代化論者らの妻たちは、この時代の社会論争において明確な意思表示を行っている。出版や編集事情の発達に加えて、女性による女性のための多くの社会的イニシアチブが取られた。女子校や健康管理のための協会が作られたことは、特筆すべきである。 ロシア帝国内部のムスリム女性が知識人として果たした役割については、研究は手付かずの状態である。この問題に関するより活発な研究が必要であることを力説して、Dudoignon氏は発表を締めくくった。 次にFrancoise Aubin氏は、中国のムスリム知識人について論じた。20世紀前半は、中国にとって衝撃と混乱の時代であった。そのなかで、ムスリム知識人は静かに革命を推し進めていた。主たる舞台となったのは、中国沿岸部であった。 彼らはまず第1に、宗教教育やイスラーム文化の促進を目的としたさまざまなムスリム文化協会を新設した。第2に、小学校や中学校を設立していった。そこでは、すべてのムスリム子弟に対して「新式教育」と呼ばれる教育法を導入することが目的とされ、アラビア語による説明や筆記に加えて、中国語が採用された。過去を拒絶することなく、古典文学と現代の口語中国語に精通することが求められていたのである。 過去3世紀の間にウラマーによって書かれた書物は、現代においても読み継がれている。これら過去の遺産は、ムスリム知識人のアイデンティティーを構築する不朽の構成要素となっている。ここにこそ、中国ムスリムにおける「中国人性」(Chineseness)の表れを見ることができると、Aubin氏は発表をまとめた。 小林寧子氏は、アブドルラフマン・ワヒドについて発表した。周知のように、インドネシアにおいて、民主的手続きを経て選ばれた最初の大統領となった人物である。 インドネシアのような多元的な社会において、イスラームが発展し得る方法を模索するワヒドは、大統領就任以前に多くの論争を巻き起こしてきた。小林氏はその論点は3つに要約する。 1)地域の文脈に応じたイスラーム 彼はNurcholisch Madjid、Munawir Sjadzaliらと共にクルアーンのコンテクスチュアライゼーションを促進した。「よいムスリムになるために、アラブの慣習を適応する必要はない」という立場である。かつて1987年に「アッサラーム・アライクム」の代わりにインドネシア語の挨拶を採用すると発表、ムスリム強硬派から非難を浴びている。また女性がより広い自由を享受することを奨励する。 2)普遍的価値観(個人の権利や平等、社会正義)の尊重 ワヒドはイスラームの社会倫理としての重要性を主張する。この観点から彼はイスラームの制度化に反対し、宗教法廷法や宗教教育法に反対する議論を展開した。宗教生活を国家は侵害するべきではなく、それは個人の良心にゆだねられるべきであるとする。 3)イスラームの包括性を確認すると共に、宗教問題における自由主義を重視 ワヒドは「伝統的」イスラームがタブー視するシーア派やムウタズィラ派を評価し、また儒教を一つの宗教として擁護した。さらに戦闘的イスラームを、インドネシアのような多宗教、多民族社会における宗教の調和を脅かしかねない存在として遠ざけた。 ワヒドのビジョンは対外的にも理解されやすいという利点を持ち、他のイスラーム地域にも適応し得るモデルを提供する可能性を有している。人々がインドネシアの多次元にわたる危機を克服してくれる「カリスマ」として彼に期待をかけたのも、まさにこの点にあったのであろう。しかし、その危機は想像よりはるかに深刻で根深いものであり、ワヒド政権内部に亀裂を生じさせている。 小林氏はワヒド政権の功績について評価を行うのは時期尚早としつつも、その見通しは、絶望的ではないが悲観的になりつつあると述べる。実際ワヒドは数多くのジレンマを抱え、それが彼の政治生命を左右しかねない危険性をはらんでいる。宗教問題はより複雑化し、指導者にとって宗教認識は国家運営においてもっとも重要な要素となったが、ワヒドは宗教が政治の道具に使われることを否定する。しかしその一方で、ムスリムの感情を静め懐柔する際に、彼自身が宗教的なディスコースを使わざるを得ない事態に陥っているのである。 松永泰行氏は、1990年代のイラン・イスラーム共和国における民主的な「新左派」イスラミストの誕生と発展についての発表を行った。「旧左派」の急進的イスラミストが民主的「新左派」イスラミストへと変化したことが、ハータミー大統領による新時代の幕開けに欠かせない要素であったとする。 「新左派」のディスコースの重要な側面は「法による支配」の支持であるが、それは宗教的なイデオロギーか、またはイデオロギー化された宗教かという議論を通して発達してきた。松永氏は、この文脈において、「新左派」イスラミストの理論家、Sa’id Hajjarianを重視する。Hajjarianは1995年に世俗化論を発表している。それによれば、世俗化の過程において、教会と国家の分離が生じるが、これは単に宗教が政治から乖離するというものではない。むしろ国家が、従来宗教組織が果たしてきた役割、すなわち教育や司法調停などを司るようになるということである。この変化のなかで、宗教組織は自らが責任を負う領域を変化させ、その役割はよりプライベートな領域へと収斂されていった。イデオロギーは、世俗化の促進と密接に結びついているということであった。 |
報告者:末近浩太、山浦公美代、相島葉月
(いずれも京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科)