1班a研究会


マウドゥーディーの思想とジャマーテ・イスラーミー
山根 聡(大阪外国語大学)


日時:9月22日(金)

場所:京都大学大学院 アジア・アフリカ地域研究研究科
連環地域論講座


  アブール・アーラー・マウドゥーディー(1903〜79)は、「イスラーム復興運動」の思想形成に大きな役割を果たした人物として評価が高い。とりわけ「イスラーム国家」理念の体系化は先駆的な業績である。書簡・講演集を含む彼の著作は140冊を超え、22言語に翻訳・紹介されている。今回の山根氏の発表は、マウドゥーディーの思想を、ジャマーテ・イスラーミー設立にいたる過程での、詩人イクバールとの交流から浮かび上がらせようと試みるものだった。

  冒頭、山根氏は次のような文章を引用して、マウドゥーディーとイクバールの関係について明らかにした。
「イクバールは、この現実をなんと見事に表現したことであろうか。(イスラーム)国家について西欧の人々に諮るなかれ。預言者の民の構造は、特別なものなれば、国家も民族も、(イスラーム)団体の名の下にできるものなり。汝の(イスラーム)団体は、信仰の力でのみ、形づけられるものなり」(マウドゥーディー、1939「イスラーム民族主義」、『民族主義の問題』p.57)

 当初、マウドゥーディーは南インドのハイダラーバードでイスラーム雑誌の編集に携わり、知識人に対してイスラーム国家の確立を呼びかけていた。インド・ムスリムを代表する詩人であり、またムスリム連盟の指導者の1人でもあったイクバールはその論調を高く評価していたが、「イスラームの近代的編纂」(Islam ki Tadvin-e Jadid)、具体的には研究機関設立を企画するに至って、マウドゥーディーへの接近を図った。イスラーム法とイスラーム文化の歴史に通じ、なおかつ英語にたんのうな人物を探していたイクバールが、最終的に白羽の矢を立てたのがマウドゥーディーであった。南インドでは活動の機会が減っており、ムスリムの将来を決定するには北インドが妥当であろうと感じていた彼は、ラーホールにイクバールを訪ねた。そして、時代にそぐわないと考えられているイスラーム体制の問題点を解決すること、ムスリムの思想的指導者を育成することを目指すことなどを話し合った。

  1937年12月、イスラームの宗教と文化を知らしめるための出版活動を行う研究機関として「イスラームの家」がパターンコートに設立される。そして翌38年3月にはマウドゥーディーがハイダラーバードから移り住んでくるのだが、4月にイクバールが死去するため、計画は頓挫してしまう。「イスラームの家」はさしたる成果を残すことはなかったが、結果的にはこれが後のジャマーテ・イスラーミー設立(1941年)をもたらすこととなったのである。

  パキスタン建設の夢をその「詩想」に託したイクバールと、「近代イスラームの中でもっとも体系的な思想家」(W.H.スミス)と評価されるマウドゥーディーの関係については、これまであまり言及されることがなかった。山根氏は、ウルドゥー語資料―その中には原典のみならず、現地で収集したマウドゥーディーの手紙のコピーも含まれる―に丹念に当たることで、両者の間に短い間ながらも、きわめて濃密な関係があったことを論証した。さらに「民族」や「共同体」の定義づけ、あるいは主権(民主主義)の問題において共通項が見られることも指摘した。20世紀前半からパキスタン独立に至るまでの時期の、南アジアのイスラーム知識人のネットワークを考える上で、きわめて刺激に富んだ論考であった。
(子島 進)



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