第1班Bグループ研究会

日時: 2000年7月4日(火)14:00〜19:00
場所: アジア経済研究所 C22会議室



報告要旨



第1報告
笹川秀夫(上智大学大学院外国語学研究科地域研究専攻)

「植民地と植民地後の言説にみる連続性と断絶
――カンボジアの宮廷舞踊を事例として」



1.問題意識
 本発表における報告者の問題意識は既発表論文を発展させたものである。アンコールを「栄光」の時代、ポスト・アンコールを「衰退」の時代とする歴史観は、フランスがシャムとベトナムによる「領土」の蚕食からカンボジアを「保護」するという植民地支配正当化の言説として創られたと考える。しかし、カンボジア人自身もナショナリズムのよりどころとして、フランス的なアンコールを自覚的かつ選択的に受容してきた。国家建設のプロセスにおいて、カンボジア文化がアンコールと結びつけられてのみ語られるところには、文化が政治性を帯びていく過程が見られる。本報告では、その過程を宮廷舞踊を事例にして検討してみようとするものであった。

2.アプローチ
 報告者は、「語りのアンコール化」という概念を用いて、「アンコール化以前」「語りのアンコール化」「カンボジア人によるアンコール化の受容」という3つの時代区分を行った。「アンコール化」とは、カンボジア文化がアンコールから続く「伝統」であるという評価が確立されて行くと同時に、他文化(特にタイ文化)の影響についてはあえて無視されていくプロセスである。報告者はこのプロセスを、フランス人の著作、各時代の舞踊団の演目、植民地博覧会でのカンボジア文化の紹介のされ方など、図例を含む豊富な例を示しつつ、明らかにしようとした。

3.報告概要
 まず、植民地支配の進展とフランスによるカンボジア研究の展開の関連性に言及した後、宮廷舞踊に関する語りの「アンコール化」は1910年代から30年代にかけて完成することを植民地行政側にあって文化政策に深い関わりのあったフランス人であるグロリエの言説を中心にしつつ論じた。

 次いで、グロリエによって示されたような「アンコール化」を受容したカンボジア人エリートとして、1900年代初頭から1930年代まで宮廷大臣をつとめたチュオンが1930年に出版した本の内容を例示した。

 そして、独立後の宮廷舞踊のあり方の変遷を追った後、1999年末のフェスティバルにおて、カンボジア政府によって、宮廷舞踊がアンコールから続く「伝統文化」として紹介されていたことを示したうえで、「伝統」をめぐる語りは今なお再生産されつづけていること、特にポルポト政権(1975-79)後の「文化復興」の必要性が唱えられている現在は「真正」な文化という語りはむしろ成立しやすい状況にある、と指摘した。最後に、「これが文化だと権力によって認定されたものが、どのようにして政治性を帯びるのかについても検討されるべきではないか。」という問題提起が行われた。

4.質疑・議論
Q. タイ宮廷舞踊とカンボジアのそれの類似性は。

A. タイにおいてはカンボジアから流入した文化であることを否定しない。タイはタイで独自にアンコール文化の保持を行なっている。

Q. 報告者によれば「アンコール」はカンボジア人が他の国に向けてカンボジアという国を宣伝するために用いられた点が強調されているが、国内エリート達は「アンコール」のイメージを国内に対してはどのように用いたのか、庶民の教育に対する影響はどのようなものなのか。

A. 仏領期の教育内容等については、今後の課題である。

Q. カンボジアという国とクメール民族、およびアンコールとの関係、をめぐる問題はどうなっているのか。特に宮廷舞踊の非大衆性について。宮廷文化という特質からして、大衆文化とほとんど関係を持たなかった宮廷文化が近代化の過程で大衆の中で語られる対象となっていくという点に着目したい。トルコ、バルカンの例においては、民衆文化がナショナリズム枠内で再生され、どこにもない「民衆文化」が創造(伝統の創造)されるという例が見られる。これはまた社会主義文化政策の中にも感知される。

A. カンボジアという国はクメール民族がほとんどであり、その意味において同質性が非常に高いので、国家形成の過程で「実際には存在しない民族性」を新たに創りあげて再生産しつつ国民に受容させるという現象はなく、むしろ、クメール人が自らのよりどころとしてフランスによって発見された「アンコール」を受容し、シンボルに作り上げたと言えよう。
(文責:天川直子[アジア経済研究所])


第2報告
高倉浩樹(東京都立大学人文学部助手)

サハ・ナショナリズムとソビエト規格文化


まず冒頭にアンダーソンの「想像の共同体」で指摘されているナショナリズム論を引き、公式ナショナリズムの典型例としてロシア・ナショナリズムが捉えられていることを指摘。ソ連崩壊とエスノ・ナショナリズムの高揚過程を概観(共和国単位、自治共和国単位、それ以下のエスニック集団といった形で「マトリョーシカ・ナショナリズム」と称される)、その中でサハ(ヤクートの自称)ナショナリズムを分析していく。

特に20年代ネップ期には地方自治体としての権限拡大、特にダイヤモンドと金に代表される地下資源利用の産業育成を主張してナショナリズムが展開された。天然資源を巡るナショナリズムの興隆については、20年代南部ヤクーチアにて発掘、開発が進んだことでロシア人とサハ人の人口比が逆転、80年代末にはロシア人人口がサハ人のそれの1.5倍となるまでに至っているという情況を背景としている。また文化啓蒙団体の設立、文学者によるブルジョア・ナショナリズムが展開された。こうした20年代のナショナリズムは、基本的に80年代末以降のペレストロイカ期−共和国形成期のナショナリズム高揚において再現される形で展開した。

上の人口比率逆転の問題を踏まえて移民制限が主張され、非サハ人に対する排外的対応がとられる一方で、サハ人の民族的象徴の措定としてレナ川岸壁の図象の利用、ソ連時代に非合法化されていたシャマニズムの合法化と民族精神との関連付け、駒つなぎや馬乳酒などの民族的象徴化などが進められた。その流れのなかで、86年に自治共和国から昇格して共和国が形成され、その憲法には「民族の権利に基づく主権国家」と明記しつつ「ヤクーチアの領土は多民族からなる人民のもの」と規定された。

一方、ソ連時代においてはナショナリズム/多民族性が制度化されていた。諸民族はその民族文化をフォーマット化され、儀礼用具などの物質文化とシャマンなどの精神文化研究に特化した形での――社会人類学的調査を排した――ソビエト民族学が確立された。この過程において、旧ソ連時代にソビエト民族学が作り上げた先住民文化の表象、言説が住民自身の声や認識を圧倒し、諸民族自身が自らの文化をソビエト民族学の枠内でしか認識できないという事態が発生した。

こうしたいわゆる「社会主義ネイション」の成立はサハも例外ではなく、70年代以降結婚儀礼の創作などそれまでなかった儀礼・慣習が作られていった。また全国一律に展開したコルホーズ・ソホーズの組織や行政集落の区画など、全ソ的に規格化された生活世界・景観を提供するという「ソビエト規格文化」が確立されていったが、こうした社会主義的生活様式と可視的な民族文化の組み合わせの上にヤクーチア地域の景観が存在しているといえる。すなわち、サハ人は複数の民族文化を抱えながら生活しており、社会主義的生活様式から想像される共同体意識、連邦制における民族自治、多民族主義といったのもが住民意識の中に強く存在する。

質疑応答:

Q.20年代と80年代で民族主義運動がパラレルであったと述べられたが、どういう意味か。イデオロギー的継承は。バルカンにおいては名称は継承しながら実態は全く異なっているという事例がある。

Q.村においては多民族・多文化容認が基本的な姿勢であろうが、都市においては排外志向が強まるのではないか。ロシア人が減少しているのは拝外主義の証左ではないのか。

A.拝外主義の結果減少しているというよりは、経済的理由から外に出て行くケースが多い。

Q.サハ・オムクによる非サハ人追放主張とサハ人の多民族容認性との関係はどうなっているか。

A.サハ・オムクは徐々に排外性を弱めている。非サハ人追放の主張は一般的なものではない。

Q.サハの民族主義とは、実際には単なる地方自治権利要求に過ぎないのではないか。

A.それがソ連的枠組みの中では「民族的要求」といった形で主張される。

C.ソ連的レトリックにおいてはそれでいいが、国際社会に一旦「民族的要求」として国際社会のディスクールとして認知されると、それが一人歩きしていく、という側面がある。

Q.民族文化の核が弱いのではないか。シャマニズムしかない。系譜は存在しないのか。

A.存在しない。
(文責 酒井啓子)



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