2001年度研究会の報告

 

428日 第一回オスマン文書研究会

2001年度最初の研究会は、最近トルコ留学を終えて帰国された中央大学大学院の高堀英樹氏に報告をお願いした。報告内容は二つの部分からなる。

報告の前半はイスタンブルにおけるオスマン古文書の研究機関である総理府オスマン古文書館とトプカプ宮殿博物館古文書館に所蔵されている文書・記録のうち、氏が閲覧したものを中心に解説がくわえられた。

総理府オスマン古文書館に関し、16世紀を研究する上で、重要なものとして、勅令抄録(ミュヒンメ・デフテルレリ)、財務省移管台帳(マーリーイェデン・ミュデッヴェル・デフテルレル)などが重要であると指摘した。ただ、16世紀のものは腐敗、痛みが進行しているため、閲覧・複写が困難である。トプカプ宮殿博物館古文書館にも、文書・台帳が所蔵されている。ただこれも、特に台帳の場合、以前出版されたカタログとその継続部分である、備え付けのカタログを利用し、実際に請求するまで、その内容がわからない状態である。二つの古文書館に共通していえることは、16世紀に関する史料は数が少ないことである。特にトプカプの場合、閲覧・複写許可ともに時間を要するので、時間に余裕がある留学期間中に調査を実施したほうが良いということであった。

報告の後半は、氏が専門とする、オスマン海軍に関してなされた。オスマン海軍が大きく発展したとされる16世紀、海軍提督ハイレッディン・パシャが大艦隊を率いてイスタンブルに来航し、彼の下でエーゲ海の島々と北アフリカの領土を加えた広大な州が成立した、という通説を氏は批判的に検証した。実際には、ハイレッディンが編成した北アフリカの艦隊は非常に規模が小さく、後の時代まで補助艦隊的な役割しかはたしていないこと、同時代・後の時代に記述されたオスマン朝の史料において、「海洋州」(ジェザーイル・ベイレルベイリー)とアルジェリア州(ジェザーイリ・ガルブ・ベイレルベイリー)がしばしば混同されていた可能性があることが指摘され、ここから、ハイレッディン以前からオスマン海軍が成熟の域に達していたこと、ハイレッディン時代にも二つの州は別々の行政区分であった可能性があると氏は結論づけた。つづいて文書・記録から、歴代の海軍提督の就任期間やキャリアパターンを具体的に検討した。

報告のあと、質疑応答がなされた。最初にイスタンブルの文書館の所蔵史料の状況や閲覧・複写にかんする質問がおこなわれた。つづいて、ハイレッディン・パシャの海軍提督就任にかんする史料の記述の食い違いや従来の解釈にかんする質疑がなされた。また、16世紀のオスマン側の史料が少ないことから、イタリア側の史料を用いて補完する可能性など、将来的には検討すべき課題などが提案された。

以上が発表の要旨と質疑応答の模様であるが、ここで文責者の感想を少し記す。まず、「海洋州」は成立当初、行政単位としていかなる働きをしていたかということである。氏は、ゲリボル県で徴税権を分与された軍人達が、指揮命令系統上、海軍提督の指揮下にない、という興味深い指摘をした。また、ハイレッディン・パシャ以前・以降の海軍提督就任者の履歴から、氏が指摘したように、その職が官人が通過する一キャリアであるとすれば、「海洋州」の成立は彼個人の資質に由来するものであり、海軍提督の地位の格上げのため擬制的に従来の行政の仕組みになぞらえられたとの印象を受ける。以上から、「海洋州」は当初、州としていかなる実態を伴っていたかという疑問が生じる。このほか、氏は、オスマン古文書館の分類上タフリール・デフテリと呼ばれる台帳が氏のテーマにとって利用価値が少ないことを述べた。しかし文責者の見解では、上記台帳は租税台帳であり、氏のように海軍提督の履歴を調査する場合、提督に分与された徴税権の所在場所を明らかにするうえで有効な史料のように思えた。

以上が感想であるが、氏の報告は、16世紀における残存史料の少なさという限界を意識しつつも、その限られた条件の中で、丹念に史料を読み込み、オスマン帝国がダイナミックな発展をとげた時代(16世紀)の通説に挑戦しようとする、意欲的なものであった。(文責:清水保尚・大河原知樹)

30日 2回オスマン文書研究会 (「イスラーム法廷制度・法廷文書とイスラーム社会」研究シリーズ@)

18世紀初頭にシリアの名望家(アーヤーン)として勃興したアズム家のうち、2人目にダマスカス州総督に就任したスライマーン・パシャ・アズム(在任1734-38, 41-43)の財産運営を、膨大なイスラーム法廷記録にもとづいて明らかにした。スライマーンは1735年と37年、38年の3度にわたってワクフを設定している。ひとつは子孫のためで、残る2つは自身のたてたマドラサのためである。それに関連する売買や賃貸の証書100点の記録から、市内に存在する市場や公衆浴場、隊商宿や郊外に広がる物件がワクフに設定されていることが確認された。もっとも注目されるのは、物件の購入方法である。同じ物件が日をおかずに何人もの人間の間で権利の移転を繰り返している例が多数確認された。これが何を意味するのかは残念ながら十分には判明しなかったが、今後イスラーム法廷記録を研究する際に注目すべき事例であることは確実である。今後はイスタンブルの遺産文書などもちいて、同家の資産の全貌が解明されることが期待される。


925日〜28日 オスマン文書講習会

講習会参加報告その1

生田真澄(神戸大学文化学研究科博士過程)

9月25日から28日の4日間、マルマラ大学のアリ・アクユルドゥズ氏を招いて行われたオスマン語文書講習会は、19世紀-20世紀のオスマン帝国に興味があり、また文書史料に関する基本的な知識を得たいと常々思っていた私にとって、非常によい機会であった。

講習会は、オスマン朝における改革運動についての概説から始められ、その後、オスマン文書をその種類ごとに取り上げて具体的に解説する形で進められた。氏は、各文書の様式や内容、それに見られる定型句、日付や筆跡の問題を詳説されただけでなく、行政組織と文書の具体的な関係および位置づけを、関係図を板書して説明された。これは行政システム全体の中における各文書の役割を理解するのに非常にわかりやすいものであった。これによって、行政組織の中での文書の役割や位置づけがわかれば、文書の内容そのものの理解も容易になる、ということが実感できた。また取り上げられた文書は、君主によるもの、大宰相によるもの、下部組織による報告書?19世紀半ばから使用された電報など、さまざまな様式、役割、時期、書体のものであり、マフムート2世の改革についての宸筆なども含まれていて興味深いものであった。氏は、一見して非常によく似た様式に見えるけれども異なる種類の文書の例(フェルマーンとベラートなど)も挙げてその違いを具体的に解説されたので、実践的な知識を得ることもできた。

4日間の集中講義であり相当数の文書が扱われたため、多少ハードな講習会であったが、初学者への配慮も十分になされたアクユルドゥズ氏の熱心な講義と高松氏の通訳および適切な解説は、文書について無知な私にとってもわかりやすく、有意義なものであった。文書を扱う上での知識や技術は独学では学び難く、またオスマン朝の行政について具体的に知るためにはオスマン文書についての基礎的知識は不可欠であろうと私は思う。このような講習会が今後も行われ、オスマン文書について学ぶ場が少しでも多く持たれることを願う。


講習会参加報告その2

北海道大学大学院文学研究科M1 野宮 恵子

東京ではまだ暑さの残る9月末、25日から28日までの4日間に渡って、マルマラ大学教授のアク・ユルドゥズ氏を迎えてオスマン文書講習会が開催された。アク・ユルドゥズ氏はトルコにおけるオスマン朝近代史・古文書学の代表的な研究者の一人であるが、この講習会は、氏によって文書についての知識を「初歩から説明がなされる」ことになっており、さまざまな大学や研究機関から、学部生から研究者までの幅広い参加者の姿があった。

講習会は、アク・ユルドゥズ氏の解説が高松氏によって日本語訳、補足説明される形ものとで行われた。取り上げられた文書は、マフムート2世時代から第二次立憲制期までの、ハット・ヒュマーユン、イラーデ、ブユルドゥ、ヴェラート、マズバタ、アルズ・マズハル、写し・ひかえ、電報、草稿、といった一通りの文書36種で、あらかじめ参加者に郵送によって手元に届けられたものである。それぞれの内容を追いつつ、形式や特徴、その文書が交わされた道筋などについて説明された。特に興味深く感じられたのは、タンズィマート以降の文書の変化である。官僚機構の複雑化や改革に伴う仕事量の増加と共に、文書の量も増大し、より簡略で実用的な形を持ったものへと変化していく。イラーデの増大はその一例である。ハット・ヒュマーユンはスルタンが自らの意見を伝えるために自分で書いたものであるが、アブデュルハミト2世の時代までには、スルタンの意を受けて宮廷秘書官(Mabeyi Kitabeti)が書くイラーデが主となっている。また、イラーデ自体も、その形態をさかんに変化させていく。当初、重々しく長い表現で書かれていた宛名は簡略化された。冗長な文章を避けるために「質問」などの語を略した記号が多用さられるようになり、紙面からあまり筆を離さないためにより速く書くことができるリカー体が、書体として一般化した。ハット・ヒュマーユンにはなかった日付が入れられるようになったのも特徴の一つである。そのような変化の過程は必ずしも順序良く説明されたわけではないが、多くの例を視覚的に確認することで理解が深められた。

それぞれの文書の形式について説明しながら、アク・ユルドゥズ氏が強調したのは、オスマン朝の行政組織の変遷や歴史的事象についての知識を持つことが、文書を読解する上で重要であるということであった。文書読解ではまず、それらが書かれた順(機関を回った順)を特定しなければならない。その際、それぞれの時代の行政組織がどうなっていたかを知っていることは不可欠である。また、日付のないハット・ヒュマーユンなどの文書を読む場合は、どれだけの歴史的知識を持っているか、そしてそれが書かれた時期の推定ができるかが、読解の可否を分けることになるという。この講習会は、今までオスマン語や文書に触れたことのない筆者にもたいへん分かりやすく構成されていた。一方で、すでに文書を多く扱っている研究者からも、実践的な知識を得られたという声がきかれた。取り上げられた文書の選択は、重要な歴史的事象に関わったものを交えるなど、工夫されており、講義内容の迫力を増していたように思う。筆者にとっては、19世紀のオスマン朝の人々の営為の新たな一面を知り、文書史料の豊かさに気づかされたことだけでなく、他大学のトルコ史専攻者と知り合うことができたのも、本講習会での収穫であった。今後もこのような講習会が開催されることを期待している。最後に今回の講習会の開催に尽力してくださった方々に感謝を述べて、報告を締めくくらせていただきたい。


2002年1月26日 ペルシア語文書研究会

2002年1月26日、立命館大学で開催された最後のペルシア語文書研究会で、報告を行う機会をいただいた。報告者が専門とする13-14世紀のペルシア語圏では、現存する古文書が極めて少なく、文書行政や文書作成技術、書記の知識について明らかにしようとする時、書記術手引書、インシャー文学をどのように活用してゆくかが問題となる。本報告では、ペルシア語書記術手引書の中で、文書作成の作法が多くの場合、文書授受者間の位階の差に基づいて論じられている点に注目し、文書作成における位階の作法が具体的にどのような細目を持つのか、ペルシア語文書作成の理念の一側面として、位階の差の遵守がどのようなものとして書記たちに理解されていたのかを、書記術手引書の記述に即し明らかにしようと試みた。

具体的な方法としては、まず、14世紀の複数の書記術手引書に見られる、位階の作法を巡る記述を検討した。そして、受取人の敬称・称号(ラカブ)、差出人の自称、美文による冒頭祈願句を含む文書の書面構成や、冒頭余白・行間・署名位置などが文書授受者間の位階の上下関係により決定されていることを指摘し、異なる位階間で要求される作法を遵守することで、命令書・上奏書の書式、授受者の力関係を微妙に反映する公式書簡の書き方が決まるのではないか、という仮説を提示してみた。さらに、書記術手引書における称号の一覧から、位階の区別が君主・文武の高官・ウラマー等の伝統的分類概念に基づいていることを確認した。最後に、このような位階の作法が実際にどのように用いられてきたのかという事例として、14世紀イルハーン朝の政治権力者ラシードゥッディーンの書簡集を取り上げ、ラシードの権力が各書簡にどのように反映しているのか、位階の作法から明らかにすることを試みた。

参加者は、司会を引き受けてくださった山口昭彦氏(聖心女子大)以下、磯貝健一氏(京都橘女子大)、江川ひかり氏(立命館大学)、近藤信彰氏(東京都立大)、谷口淳一氏(京都女子大)、真下裕之氏(京都大)であった。古文書学の方法論を熟知しているメンバーであり、報告者の報告が極めて不手際で不十分なものであったにもかかわらず、様々なコメントをいただいた。いずれも厳しい批判であり、古文書学における文書分類・文書形式の研究を踏まえず、書記術手引書の記述だけから文書の区別を論じるのは不可能であること、古文書学における文書分類は各文書特有の書面の構成・文章のパターンの違いに基づいており、位階の差により分けられるわけではないことを指摘された。事例研究に関しては、位階の作法が儀礼的・形式的なものだとすれば、ラシード書簡に見られる位階の作法は必ずしもラシードの実際の政治権力を反映しているとは言えない、また、ラシードの書簡における差出人の位階は必ずしも彼自身の位階を意味するわけではなく、他の人物(君主など)を代弁している可能性に注意しなければならない、という批判を受けた。

いずれの批判からも、報告者の古文書学の知識の乏しさ、書記術手引書研究と古文書学の蓄積との接点を作れていない欠陥を痛感させられた。しかしそれだけに学ぶことが多く、報告者にとっては非常に有意義な場となった。文書の形式・作成方法は時代を通して変化していない要素が多いため、手引書の記述と後代の現存文書を比較することで得る発見が多いはずであるという磯貝氏、谷口氏の指摘、またインドにおけるインシャー研究の蓄積に関する真下氏の助言は、特に参考になった。これからの課題とするとともに、会に参加して下さった方々に、改めて謝意を表したい。